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アクイレイアとパルマノーヴァ

ユネスコ世界遺産都市 アクイレイアとパルマノーヴァ

フリウリの平野部分にあたるアクイレイアとパルマノーヴァの地域です。2つの都市はその歴史的背景から、ユネスコの世界遺産に指定されています。

アクイレイア(Aquileia)

アクイレイアはの発祥は、紀元前181年とされています。都市建設の目的としては、ローマ共和国の東北辺境の防衛とされ、異民族の侵入を防ぐ関門としての機能を果たしていました。
北イタリアを横断するポストゥミア街道や、アドリア海を南北に結ぶポッピリア街道など、各地の重要都市を結ぶ街道もアクイレイアを含めて建設されており、この都市は、商業・交易的、そして軍事的にも重要な拠点として機能していたことがわかります。

ローマ時代には、「ヴェネティア・エト・ヒストリア(X Regione Venetia et Histria)」として区分され、さらなる経済や文化の発展が著しい時代でもあり、「第2の首都(ローマ)」とまで言われるほどでした。現在の東ヨーロッパへに続く街道も設置されることで、文化交流もさらに盛んとなり、アクレイアには他民族の人々が混在して暮らし、それにより商業発展も加速したといわれています。

さらに、アクレイアはその独自の宗教観を発展させてきており、多くの司祭などにも多くこの地を訪れています。300年代には司教テオドーロにより、教会(大聖堂)が設置されており、内部はその当時の権威を表すかのように美しく見事なモザイクで装飾されたものです。そして、ここを現在の東方ヨーロッパの布教の拠点として位置づけられました。

その後、同都市は他民族からの襲撃を受けます。5世紀初めには2度に渡る西ゴート族のアラリック1世により、さらには、フン族のアッティラにより、452年に街が崩壊されました。アッティラにより街は包囲され、虐殺が行われ、一部の住民は奴隷の身となったといいます。

アッティラによるアクレイアの包囲に関しては、伝説が残っています。
ひとつめは壁が崩壊する際にある預言者が予言したこと。それは、アッティラがアクレイアを包囲するにあたり、そのタイミングを見計らっていたところ、コウノトリがその子供たちを連れてこの街から飛び去っていたのを見た、というのです。それを見てこの街の防衛力がないもの、との判断をし、攻撃を開始した、というもの。

また、アッティラの襲撃の前に一部の住人はグラードなどのラグーナ(潟)の小島へと避難しました。その際に当時、アクレイアに多く保管されていた宝飾品などを井戸などに隠したのです。アクレイアの住人はもう2度とこの土地に戻ることなくこの世を去っていく人が大半で、それらの隠された宝飾品も、もちろん彼らの手に戻ることはありませんでした。第一次世界大戦前にそれらの多くが掘り出されましたが、未だそのまま隠し場所も解らないまま、というものもあるそうです。
アクレイアで言い伝わる言葉には「土地は売ってやる。しかし金の井戸は決して売らないぞ」という一節があるそうです。

その後、長きにわたり、アクレイアは異民族の侵入を受け、不安定な時代を過ごします。

11世紀に入り、アクレイアは総大司教ポッポにより聖堂の再建とともに、アクレイアの地位の再建がなされましたが、1420年にはヴェネツィア共和国の領地下となりました。
1797年のナポレオン率いるフランス軍の進撃後に交わされたカンポフォルミオ条約後は、オーストリア領地となり、第一次世界大戦後に、イタリア王国の一都市となりました。

訪れるべき場所

アクレイア大聖堂
バジリカ・ディ・サンタ・マリア・アッスンタ/Basilica di Santa Maria Assunta
大聖堂の基盤はコンスタンティノス1世の出したミラノ勅令によりアクレイアの最初の司教テオドーロにより造られました。11世紀に入り、総大司教ポッポによりほぼ現在見られるような姿の聖堂として建設されています。聖堂外部には、フリウリ及びイストリア地方特有の尖塔の形状のを持つ、高さ73mの鐘楼を持ちます。聖堂内の床は4世紀のモザイクで埋め尽くされており、非常に見応えがあります。そこに描かれているデザインはその時代のシンボル的な要素が込められています。非常に興味深いのは、ローマのカタコンベ(地下墓地)に描かれた壁画とそのスタイルに共通点のあると言われており、それは、古代ギリシャ的なヘレニズム文化の自然科学観を反映していることが窺えるものです。さらにその示すところとしては、新たなキリスト教の宗教観が出現したとされています。
例えば、描かれてる魚や羊は、預言者ヨナを、旧約聖書の予言であるキリストの蘇生を。そして朝陽のなかで鳴く雄鶏はキリストの光の象徴を、亀は海底に生きる生物の象徴として、冥界を示している…等々。
アクレイアは同聖堂及び周辺遺跡地区を考古学的に非常に重要なこと、また中世期の宗教的寄与などが評価され、世界遺産に登録されています。

パルマノーヴァ (Palmanova)

パルマノーヴァは、街を取り囲む壁が9多角形の星型のような造りに形成された「星型の街」として知られています。
1521年にヴェネツィア共和国はオーストリアとの間にヴォルムス協約を締結しました。その当時のヴェネツィアは、アドリア海への領地獲得のための交戦に向けていた勢いがだんだんと縮小していた時期にも入ります。同時に陸地での領土拡大とそれに伴う敵陣からの防御を強化する必要がありました。そこでこの地にそれら外部からの異民族の侵入、襲撃、侵略への対策として、15-17世紀にかけ、城壁が建築されました。
この城壁建築の計画には、建築家ヴィンツェンツォ・スカモッツィによるもので、実に正確に9角形の星型とされています。この時代の軍事用城壁としては最高傑作とも称されています。
城壁には外部と内部とを結ぶ主要門が設置されており、それらは当時の重要都市であるアクレイア、ウーディネ、チヴィダーレへと続く道となるため、其々の門の名称となっています。