toggle
2019-01-15

【H.I.S. 】世界遺産の古代都市「チヴィダーレ・デル・フリウーリ」

H.I.S. のHP「HIS厳選 特集&厳選コース」の
「やっぱりイタリア好き」欄に不定期で投稿しています。
世界遺産の古代都市「チヴィダーレ・デル・フリウーリ」(2018/11/29)

チヴィダーレ・デル・フリウーリは、イタリア北西部の世界遺産に指定されている小さな町。ジュリオ・チェーザレ(ユリウス・カエサル)により古代都市として栄え、近代に至るまで様々な民族が通り過ぎてきた場所。そこに残る、異民族文化の交差が見える歴史や文化は、非常に興味深いもの。足をのばしても訪れる価値のある場所だ。

フリウーリ地方の語源ともなる古代中心都市

チヴィダーレ・デル・フリウーリは、同州の中心の少し東側に寄った地域、フリウリ・オリエンターレ丘陵地帯のふもと、ナティゾーネ川沿いに位置する。旧石器時代及び新石器時代の遺跡がこの町の周辺から発掘されるほど、起源の古い町だ。
都市としての形成は古代ローマ時代にまでさかのぼり、紀元前2世紀の中盤に軍事防衛拠点とされたカストラ(カストゥルム)として築かれた。これをその後受け継いだのが、総督として君臨したジュリオ・チェーザレ(ユリウス・カエサル)であり、古代都市として繁栄した。
それにちなみ、この地は「チェーザレのフォルム(広場)」というラテン語に由来する「フォルム・ルーリー(Forum lulii)」と呼ばれ、それが、現在発音される「フリウーリ」の語源となっている。従って現在の州名の由来は、この地にあることがわかる。

この地は、時代を追って多種民族が征服してきた複雑な歴史をもつ。6世紀にはロンゴバルド(ランゴバルト)族により形成されたロンゴバルド王国の第1番目の首都として繁栄の時代を迎える。これは、現在のクロアチア、ハンガリー、セルビア、スロヴェニアを中心にあたる地域からの民族によるものだ。
その後、フリウーリ王国の都となるが、その間にも自国としての抵抗を続け、それまで呼ばれてきた「フォルム・ルーリー」は「チヴィタス・アウストリアーエ(Civitas Austriae)」として改名された。その意味するところは、現代的な言語で発音するならば「チッタ・デッラウストリア(Città dell’Austria)=オーストリア(東の)の都市」。この時代にはゲルマン民族が元となる民族構成となった。
8世紀後半以降、ローマ都市として建設された古代都市アクレイアが、一度は崩壊しながらも再建され、チヴィダーレに拠点を移している。
その後15世紀に入ると、ヴェネツィア共和国の支配下となったが、18世紀にはヴェネツィアがナポレオン率いるフランス軍に敗れた際に、フランス領へ。さらにはオーストリア帝国の一部である、ロンバルド・ヴェネト王国へ編入した後、1866年以降にはイタリア王国となった。

チヴィダーレにて訪れるべき場所とは?

チヴィダーレの訪れるべき名所スポットは、この町を築き上げてきた長い歴史的背景に由来するもの。多種民族の足跡を実際に感じ、その特異な空気を肌で感じていただきたい。

ケルト人のヒュポゲウム(地下石室)

その利用目的は明確ではなく、埋葬用として、もしくは古代ローマ人またはロンゴバルド人の時代の牢獄として使われていた、などと言われる。

サンタ・マリア・イン・ヴァッレ小礼拝堂(通称:ロンバルド寺院)

中世前期から中期の建築で、13世紀の造りと言われるスタッコ(化粧しっくい)は非常に見事。

悪魔橋

ナティゾーネ川に架かる町のシンボル。橋の建築を悪魔に懇願したことに対し、一番初めにこの橋を渡る人の魂を悪魔に差し出すことで承諾したという言われがある。ただし、実際は人ではなく、犬(猫、または豚という説も)を一番の通行人として歩かせた、という逸話も残る。

関連記事